広告ブロックツールはオールオアナッシングなのが問題
iOS9の新機能、広告ブロックが話題だ。議論の中心のひとつは、以下のような対立意見だ。
- 広告ブロックツールはWebクリエイターの収益を奪い、殺す。将来Webは、今よりずっと縮小するだろう。企業が予算をかけたコンテンツは無料で閲覧可能な領域からは姿を消し、かつて個人が趣味で運営していた「ホームページの時代」が再来する。その世界は、今の豊穣なWeb、様々な可能性に満ち溢れたWebの世界よりも、ずっとつまらないものになるだろう。
- 広告ブロックツールは「邪悪な広告」へのユーザの自衛手段だ。スマホの画面を覆い尽くしたり、誤タップを誘ったり、過激で下品なエロバナーに対して、自浄作用を発揮しないWeb広告業界の自業自得だ。そもそもそんな広告は絶対にタップしないので、ブロックしても結果は同じだ。
この議論には、現状の広告ブロックツールはあらゆる広告を消してしまうという性質が前提として存在する。
「邪悪な広告」は、私は大嫌いだ。スマホの小さな画面領域を奪い、不快な表現を視界にねじ込んでくる。特に最悪なものは、広告をタップして消さないとコンテンツを閲覧できなかったり、本文まで辿り着くのにものすごい量のスクロールを強いられたりする。
また、AdSenseは、広告の右上をタップすると、「不適切な広告」として、非表示にすることができる。こうして非表示にした広告は、ブラウザに記憶されている限り、以後その広告はどのサイトでも表紙されなくなる。私はこの機能で「不快な表現の無料Webマンガ」広告をいくつか非表示にしたことがある。
現状の広告ブロックツールは、このように「邪悪な広告」も「善良な広告」も、一緒くたに非表示にしてしまう。これが問題の根源であると私は考えている。このために、「広告で収益を得たいWeb製作者」と、「不快な広告は見たくないユーザ」の対立は平行線のままだ。
そうではないと私は思う。広告ブロックツールが「善良な広告を選別する裁定者」となることは、ツールの開発者に負わせる責任が大きすぎるように思われるのだ。そのようになったとき、広告ブロックツールには "Don't be evil" が求められる。そんな繊細な判断を、一人のツール開発者、もしくは一社の企業に任せてしまえば、いつかは「判断ミス」が致命的な結果を生みかねない*1。
この問題の解決策は、「広告ブロックツールは、なにをブロックするかは判断しない。それはユーザが個々に判断する」ようにすることだと、私は考えている。
ユーザが、iPhoneのSafariで、あるいはAndroidのChromeで、Webを閲覧しているとき、不快な広告に出会ったとき、広告の領域を長押しタップして、表示されるメニューリストから「この広告をブロックする」をタップ。以後、その広告は、ツールによりブロックされる。そのようにして、各個人が「邪悪だ」と判断したブラックリストが、個別に蓄積されていく。
これが、落としどころなのではないだろうか。
もちろんこのような機能の広告ブロックツールがスタンダードとなったところでなくならない問題はある。「あらゆる広告をブロックしまくるユーザはWebのフリーライダーだ」という糾弾はなくならないだろう。それでも、その糾弾の対象が、一企業ではなく、個人の倫理観であることは、健全なことだと私は思う。一人一人が、Webで広告を収益を上げること、その結果Webが発展してゆくことについて、個人の倫理観で判断する。誰か一人、あるいは一社の「善悪の判断」に委ねるより正しいことだと、私は考える。
それがもたらす結果について、私はそれほど悲観していない。例えば、ソフトウェアや音楽、映画の違法コピーが蔓延しても、対価を支払うユーザは存在した。また、違法コピーに対抗するため、企業はSaaSやダウンロード配信など、新たなビジネスモデルを生み出した。Webの広告であれば、「ユーザが読んでくれる広告」をつくるために、「おもしろい広告」の製作に、予算をかける企業だってある。テレビCMの時代から、それはずっとそうだった。
それを受け入れるか否かは、個人の判断だ。その判断は、一人一人の倫理に基づく。極めて楽観的で、性善説的であるかもしれない。それでも、一人一人が考える善悪を、その集合として表れる結果を、私は信じている。
よき倫理を。